黒岡神社
奈良時代の天平宝字7年(763)、今のたつの市揖西町で5本足の子牛が生まれました。不吉に思い、朝廷が占わせたところ、異賊が攻めてきて大きな戦乱が起こる、と託宣が出ました。すると翌年(764)、新羅の軍船2万余艘が攻めてきて、家島に陣をとりました。おどろいた朝廷は、弓の名手の藤原貞国に的(いくは)の姓を与えて将軍に任命し、異賊の追討を命じました。貞国は、国分寺・太田寺・松原八幡・魚吹八幡などの寺社に戦勝を祈願し、いざ魚吹津から出陣したところ、にわかに大風が吹いて多くの敵船が沈没しました。そして貞国は鉄のよろいをまとった敵の大将を射抜き、見事に勝利をおさめました。この勝利で、貞国は西播磨の領主になり、太田郷楯鼓原に住み、後に、黒岡明神として祀られました。
これは、中世播磨の地誌『峯相記』に出てくる話で、鎌倉時代から南北朝時代ころ、西播磨で語られていた伝説ですが、黒岡神社はこの藤原貞国をお祀りする神社で、境内にある塚(古墳)を貞国のお墓として、大事にお守りしています。
黒岡神社ではこのほか、昔、神功皇后が朝鮮へ出兵した帰りにこの岡に上り、兵を集めて評議をしたいうことで八幡神をお祀りし、また、平安時代、九州へ向かう菅原道真がこの神社に参詣し、この地で一泊したということで菅原道真を、合わせてお祀りしています。
なお、境内ににある藤原貞国のお墓と伝えられる塚は、実際には、貞国の時代より200年以上古い横穴式石室の古墳で、兵庫県の文化財(史跡)に指定されています。

黒岡神社。右の塚が藤原貞国の墓と伝えられる「貞国塚」。

秋祭りの沼田の獅子舞(写真はお旅所での舞)。10月の第2土・日曜日に行われる秋祭りでは、獅子舞と2台の屋台(田中・町与)が奉納されます。