石海神社
石海神社は、『日本書紀』編纂の中心となり、また奈良時代前半期に政界の重鎮としても活躍した舎人親王(とねりしんのう)=崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)をお祀りし、かつては崇道(導)大明神と呼ばれていました。また、親王ご夫婦をお祀りしているともいい、社殿左右に植えた雌雄の松を夫婦松と呼んでいたそうです。舎人親王は、追号の崇道尽敬皇帝の名前から、奈良時代の末、謀反の疑いをかけられて非業の死を遂げた早良親王(さわらしんのう)=崇道天皇(すどうてんのう)と混同されていますが、この「崇道(導)」をお祀りしている神社が、日本中でこの地域に集中しているのは、大きな謎です。
かつては岩見郷(糸井・立岡を除く石海地区)の総鎮守社で、江戸時代、天保9年(1838)に造られた本殿には、鯉に乗った琴高仙人はじめとする中国の神仙の彫刻があります。また、西播磨各地に絵馬が残る土井継信(鶴山)はこの神社の氏子で、同社にも明治20年(1887)以降、たくさんの絵馬が残されています。

石海神社。鳥居前にある宮本公園には、宮本武蔵生誕地の石碑が建つ。武蔵の生誕地には諸説あるが、近世播磨の代表的な地誌『播磨鑑』の著者・平野傭脩は、自家の隣村である米田村には一切触れず、ここ揖東郡の宮本村だとする。

近江のお兼図絵馬(明治39年・1906)。お兼は近江国海津宿の遊女で、大力の持ち主。暴れ馬の手綱を片足で踏み止めたという話が『古今著聞集』にあり、浄瑠璃などの題材にとられている。土井継信(鶴山)にはめずらしい美人画の絵馬で、素地の一枚板の木目も美しい。