斑鳩寺 その1
斑鳩寺(いかるがでら)
推古天皇の14年(606)、聖徳太子は、推古天皇に請われて勝鬘経・法華経を講経しました。それにたいへん喜んだ天皇は、太子に播磨国の水田100町歩を贈り、太子はそれを法隆寺に納めました(『日本書紀』巻22、推古天皇14年条)。やがてその地に法隆寺領鵤荘が成立し、太閤検地まで約1,000年にわたって、法隆寺を経済的に支え続けました。
斑鳩寺(いかるがでら)は、この播磨の地を治めるために、聖徳太子が建立したと伝えられています。はっきりとしたことはわかっていませんが、古文書や発掘資料から、平安時代後期の12世紀ころには、瓦葺きの堂塔が建ち並んでいたと考えられています。そして、聖徳太子に対する信仰の中心として、多くの人々の信仰を集めていたようです。
戦国時代の天文6年(1537)、出雲の尼子詮久(あまごあきひさ)が播磨に攻め込み、現たつの市新宮町越部の城山城(きのやまじょう)に入りました。そのため、人々は合戦を恐れ、斑鳩寺などに逃げ込みました。詮久は同9年(1540)には出雲に引き上げますが、混乱はおさまらず、人々は避難したまま斑鳩寺境内などに留っていました。そんな天文10年(1541)4月7日夜丑刻、避難民の小屋からの出火、斑鳩寺は全焼してしまいました。
『鵤庄引付(いかるがのしょうひきつけ)』によると、「真仏太子」、現在聖徳殿奥殿に安置されている聖徳太子孝養像のみは政所へ避難させることができ、また、南無仏太子像が炎の中から自ら涌き出で、政所へ飛び込んだとあります。そして火災になったのは、避難民が牛馬を引き入れたことによりけがれた境内を清めるとともに、斑鳩寺の再建に人々が力を合わせて太子に結縁することで、人々を助け救うための御方便である、と書かれています。
その後、同年5月26日、仮堂を造って太子像が安置され、10年後の天文20年(1551)、湯浅河内守・内海久忠らの多額の寄付と多くの人々の助力で、太子堂が再建されました。他の諸堂も、永禄8年(1565、三重塔再建)までにおおむね再建され、斑鳩寺は往時の姿を取り戻しました。そこに、地域に根付いた太子信仰の姿をうかがうことができます。

聖徳太子勝鬘経講讃図
(国重要文化財 鎌倉時代 斑鳩寺蔵) 聖徳太子が推古天皇に勝鬘経を講経する様子を描いた図。太子が自分の姿を水鏡に写し、自ら描いたという伝説を持つ。太子の周囲に並ぶのは、息子の大兄皇子、蘇我馬子ら、太子のブレーン。