500年前のお正月
太子町は、お太子さんの荘園・法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)の故地です。そして、法隆寺には、ここで暮らす中世の人々の様子を知ることのできる、『鵤御庄当時日記(いかるがのみしょうとうじにっき)』という貴重な資料が残されています。そこから、500年前のお正月の様子をみてみましょう。 鵤荘の政所(まんどころ)では、年が明けるとまず一番に、年男が起きて若水を汲みました。そして、政所の客殿に預所(あずかりどころ)ほかの主要なメンバー(今でいうと、町長と町の幹部たち)が集まり、鏡餅を拝んでお屠蘇(とそ)をいただき、新年のあいさつを交わしました。それが終わると、みなそろって「六ヶ入堂」を行います。初詣(はつもうで)です。
まず、斑鳩寺へ。三重塔と下宮・聖霊権現へお参りし、次に本堂(講堂)、御太子堂、八幡(鎮守社)、仁王門と順番にまわります。そこからは上宮・稗田神社に参詣、そして城山にあった毘沙門堂へ。さらに平方の大歳神社、東保の荒神社・大歳神社・八幡神社とお参りして政所へ帰り、最後に大将軍社へお参りしました。政所の衆は、それぞれの場所に鏡餅を供え、僧侶や神職らと新年のあいさつを交わし、一献酌み交わしていました。
城山の毘沙門堂、東保の荒神社・八幡神社、大将軍社のように合祀などで今はもう無い寺社もありますが、今年のお正月は、皆さんも、ぐるっと廻ってみてはいかがですか?


鵤荘の総鎮守社・稗田神社

平方の大歳(ださい)神社
『鵤御庄当時日記』に書かれた内容を紹介しましょう。
一、正月元三以下朝拝事 朔日早朝に預所殿・筆取・後見を、定使が案内して客殿へ来てもらう。それ以前に、年男が起きて若水を上げて、舞いながら出立して客殿へ出仕する。預所殿は 重衣・白五帖で座敷に御座りになり、筆取・後見以下は常のように上下(かみしも)で出仕して、互いに祝言を述べあう。両定使も客殿へ出仕する。やがて、餅を拝んで二種の肴・慈仙羮(じせんかん)・荒立で酒を二献のむ。三献目に鏡餅を預所殿が拝み、それまでは筆取までの人は鏡餅を拝まないとか。また二献のみ、全部で酒は五献である。嘉例の法談はおおむねこのとおり。次に引出物で、預所殿へは厚紙一束、筆取・後見・両定使までは厚紙一帖ずつ、あと少者・中間・雑司までは舞で祝い、引出物として中紙一帖ずつを出す。
次に、預所殿・筆取・両定使・中間以下を召し連れて六ヶ入堂がある。まず大寺(斑鳩寺)の塔と下宮へ参り、神主より冨牛玉をいただく。次に本堂(講堂)・御太子堂へ参り、その時内陣で仏性院と出会い、嘉例の一献がある。二種の肴・昆布・勝栗で酒三献をいただく。次は八幡・二王堂(仁王門)へ順番に参り、次は稗田神社ヘ参ると、神主が冨牛玉を出す。それより毘沙門堂(城山にあった)へ参り、見性寺の僧と出合い、酒がある。五献の後、引出物がある。預所殿は中品の中紙一束・鍋一つなど、その時に依る。筆取には下品の中紙一束六十文・鍋一つ、これは近年のことで、殿原たちには中紙・壇紙折二帖・扇一本ツヽ、定使までこれはある。しかし、今年は、見性寺の弟子の僧たちと出会った。次は平方大歳神社へ参詣、そして東保の荒神・大歳・八幡の三社へ参って政所へ帰り、大将軍社へ参詣する。
正月三日の入堂は大寺(斑鳩寺)ばかりでも又六ケでも時の在庄(預所)の随意である。入堂より帰って飯を食べる。そうじて正月三日間は、上下の人ともに三合飯が三度である。
一、元三入堂について、下宮(聖霊権現)・本堂(講堂)・御太子堂・稗田神社・毘沙門堂・平方宮・東保大歳神社に、政所より、鏡餅を持って参る。大小あるが、おおむね両人が知っている。
以下、主要なことばの解説
預所(あずかりどころ)・筆取(ふでとり)・後見(こうけん)
鵤荘を治めるために、法隆寺から下ってくる僧侶。一番上位が預所で、法隆寺の現地事務所・政所(まんどころ)の代表者なので、政所(まんどころ)とも呼ばれる。いずれも、ふだんは東方・西方で二人ずついるが、年末の大掃除のあとに東方の預所らは法隆寺に戻る(その後、西方の預所らが東方に移る)ため、正月には一人ずつしかいない。
定使(じょうし)
地元から出て政所で働く役人で、東方・西方で二人いる。
少者・中間・雑司
いずれも、地元から出て政所で働く、身分の低い役人。
殿原たち
地元の有力者。
慈仙羮(じせんかん)
クワイのあつもの(熱いスープ)で、今のお雑煮か、あるいはお節料理の煮物につながるものだろう。
冨牛玉
牛王法印の一種、災厄除けの護符や縁起物の類だろう。
仏性院
斑鳩寺の子院の一つ。ここの院主が斑鳩寺を代表することが多かった。
見性寺
鵤荘にあった有力寺院。今の城山あたりにあったか。