顕実上人と信寂上人
糸の井にゆかりの顕実上人とは、どのような人だったのでしょう。残念ながら、上人の人となりに迫ることができるような資料は残されていません。ただ、中世播磨の地誌『峯相記(みねあいき)』によると、文永(1264~74)のころ、鵤荘の孝恩寺(きょうおんじ、坊主山にあった)をはじめ各地に、金銀や、錦・綾などの織物、そして立派な彫刻で飾られたきらびやかな念仏堂が建てられ、浄土の教えをたたえる法会が盛大に執り行われ、播磨の浄土宗は最盛期を迎えていました。その中心にいたのが朝日山の顕実上人でした。
また、『峯相記』には、顕実上人の師匠の師匠である信寂上人について、おもしろい話が載っていますので紹介しましょう。
文治年中(1185~90)、室津の長者の家に、一人のみすぼらしい老法師が、召し使われていました。その頃、この長者は古今和歌集を書き写していましたが、仮名文字は書けるのですが漢字を書くことができず、誰に書いてもらおうかなぁと思いながら、空けておいていました。そんなある日、他所から帰ってくると、すばらしい筆跡で書き込まれてあるのです。誰が書いたのか、考えても思い当たる人はいません。内で召し使っている下女が、あの老法師がそっとやってきて何か書いていたようだといいましたが、そんなことはないだろうと不思議に思っていました。
そうした時に、新しく福井荘の地頭になった吉川氏が室津へ遊びに来ました。そしてこの老法師を見つけると、たいそう敬い、手を合わせて拝んでいるのです。そこでこの老法師が誰なのかを尋ねると、この人こそ法然上人の高弟・信寂上人で、京から姿を隠されていたのです、というではありませんか。
上人はしきりに否定されていましたが、やがて福井荘に招かれ、朝日山の東の麓に造ったお堂に住んで、人々の信仰を集められました。浄土宗に播磨義という流れ(一派)がありますが、それがこの上人の流れで、その後、顕寂上人、顕実上人と引き継がれています。
鎌倉時代の後半ころ、顕実上人は、この信寂上人の流れを汲んで播磨の浄土宗の中心にいました。しかし、顕実上人が亡くなって次の顕證上人の代になると、浄土宗は衰退し、かわって禅宗(臨済宗)が広がっていきます。

『峯相記』(斑鳩寺蔵)より
顕実上人・信寂上人の部分
『峯相記』の記述
『峯相記』の記述を紹介しましょう。
又文永ノ比、当国ニ五ケノ
奇麗ノ念仏堂ヲ造ル事有キ。檀越ハ皆当国富貴ノ輩也。安志
田所兼信、塩野ト云所ニ造立ス。南三郎入道、浦上ニ福立寺ヲ造ル。築 紫尼公、伊勢寺河内ニ造。医王平三入道法蓮、鵤ニ孝恩寺ヲ造ル。雲大夫
入道、飾万津ニ光明寺ヲ造ル。皆悉ク金銀ヲノヘ、錦綾ヲカサリ、雕鏤ヲカサリ、
雕鏤荘厳、花麗ヲ尽シ、房廊殿台、朱丹ヲ交ヘタリ。画梁泥繍ノ
構ヘ、巧匠土木ノ費ヘ、其数ヲ知ラス。仍当国浄土宗ノ学生等、毎季ニ十
二日、此寺々ニテ、三部経、浄土論、御疏九帖ノ談義、自宗ノ美言、玉ヲ吐キ、浄
土ノ己證、此時ニ尤盛也。僧侶群ヲ成シ、諸方送リ物ス。一年四十八日ニ相当ル。
然トモ、朝日山顕実上人他界ノ後、此仏事スタレ畢。当時、姫路觜崎
辺ニ、季念仏トテ、称名ハカリ形ノ如ク有。此旧好也。然トモ福立寺ハ延慶ノ比禅
院ニ成ル。孝恩寺中比禅院、当時ハ律院也。塩野寺ハ禅院ニ成ル。伊勢
寺ハ当山ヘ遷造レリ。今光明寺ハカリ本宗ノ寺ニテ、顕證上人ト云人、西山 義ヲ興行スト云々。 又文治年中ノ比、室泊ノ長者カ家ニ、アサマシク賤シキ
老法師、一人出来テ、柴ヲ取リ木ヲ切リ、モチカツキシテ、召仕ハレケリ。然トモ、心中存スル
旨有ト見ヘタリ。其比長者古今集ヲ書ケルニ、真名字ヲエカヽデ、アケ置タリケル。
誰人ニアツラエムト、懇ニワビケル折節、他行ノ跡ニ殊勝ノ筆跡ニテ、作者等、悉ク
書ク。是ヲ推スルニ人ナシ。同キ内ニ召仕ケル下女カ、アノ法師カ忍寄テ、物ヲ書候ツト
申ケリ。長者不審ヲ成ス処ニ、吉河一族、福井ノ庄ヲ拝領シテ、下ケル刻、彼
泊ニテ遊ケルカ、此法師ヲ見付テ、大ニ敬ヒ合掌シテ拝ス。誰ソト問ケレハ、是コソ
法然上人ノ上足ノ御弟子、信寂上人、洛中逐電シ給ヘリト申ス。上人頻ニ陣シ申
サレケレトモ、ヤカテ福井ノ庄ニ召請シ、朝日山ノ東ノ麓ニ堂ヲ造リ、坊舎ヲ立、仰崇シ
奉ル。播磨義トテ、一流ノ法文有。此上人ノ流也。其後、顕寂、顕実等以後 今ニ有リ云々。