斑鳩寺 その4
斑鳩寺鐘楼
鐘楼(兵庫県指定文化財)は、袴腰のついた標準的な大きさの建物ですが、おもしろい由来があります。
斑鳩寺は、天文10年(1541)に全焼した後、時の龍野城主・赤松政秀とその子・広英らの援助を受け、復興をすすめていましたが、その途中で羽柴秀吉が播磨に侵攻してきました。龍野城主になっていた赤松広英は、戦ってもしかたがないと龍野城を秀吉に明け渡し蟄居していましたが、やがて秀吉軍の一員として働くようになり、頭角を現していきました。そして、天正13年(1585)、朝来郡の領主として竹田城に移りました。竹田城が今の姿になったのは、この広英の時代だといわれています。
さて、竹田城主となった赤松広英は、父・政秀の代から続けてきた斑鳩寺再建の締めくくりとして、米100石とともに、城のほど近くにある、音のすばらしさで知られた楽音寺の鐘を斑鳩寺に寄進しました。それによって、天正20年(1592)、斑鳩寺に鐘楼が再建されました。残念ながら、この鐘は後に割れてしまい、元禄6年(1693)に銅を加えて再鋳し、それにあわせて鐘楼も大改修されましたが、この鐘楼の由来の話はきちんと記録に残され、今に伝えられています。
また、楽音寺は現在、その境内にウツギノヒメハナバチが群生することで有名で、毎年5月下旬から6月上旬にかけて乱舞し、兵庫県指定天然記念物になっています。

鐘楼。平成6年(1994)に解体修理が行われましたが、屋根の上の鬼瓦は、広英の時代のものがそのまま使われています。

竹田城下の宝樹寺にある赤松広英の供養塔。同寺は、広英の屋敷跡に建てられている。