糸の井・桜井の清水と播磨十水

 糸の井と桜井の清水、いずれも太子町内にある名水です。ところで、名水というと、播磨十水が有名ですが、町内の二つの名水はそこに入っているの? そもそも、播磨十水って何?


 糸の井は、江戸時代の地誌『播磨鑑』によると朝日山の顕実上人の硯水と言い伝える水で、

   いろへの木葉流るゝ糸の井ハゆきゝの人のしるしとそ聞

と上人の歌を添えています。
 桜井の清水は、今は黒岡の西の方(黒岡山の西寄りのあたりということか)に少し残っていて、

   黒岡に往来の人も心あらハ薬ともなれさくら井の水

と赤松広秀の歌を添えています。
 名水というのは、単に水の良さだけでなく、その由来や付随する物語、周囲の景色などを含めて、選ばれているようです。
 

 そこで播磨十水ですが、これは、1500年代の前半頃、時の播磨国守護・赤松義村が選んだ10ヶ所の名水です。当時の大名は、武将というだけでなく、歌や芸事などにも通じて、京都の公家や僧侶などと交遊がなければ活躍できませんでした。名水を選ぶことも、そのような文化活動の一環だったのでしょう。
 しかし、『播磨鑑』を編纂した平野庸脩によると、今、十水といわれているのは、義村より50年くらい後、赤松最後の播磨国守護・赤松則房の書いた「雑談聞書」に記されているものです。義村その人が書いたもの(「秘事枕」)には、十水といいながら7ヶ所しか記されていません。もう一つ、英賀の妾・あけぼのが書いた「目覚し草」にも播磨十水が記されていますが、これらに記された十水は、同じものもあれば違うものもあり、どれが正しいのかわかりません。あるいは、時期により変わったのかもしれません。桜井の清水は「雑談聞書」に記されていますので、一般に播磨十水の一つとされています。糸の井は、「目覚し草」では十水の一つとされていますが、「雑談聞書」に入っていませんので、一般に十水じゃないといわれています。
 

 ただ、播磨十水に選ばれると大変だったのかも。地元の村長はいつも水のことを心に掛けなければならず、水守をおいて管理し、みだりに汲ませてはならなかったと記されています。名誉なことではありましたが、いいことばかりでもなかったようです(『播磨鑑』のこの部分、検討の余地があります)。

糸の井

糸の井

桜井の清水

桜井の清水

『播磨鑑』の記述を龍野文庫本で紹介します。

『播磨鑑』 揖東郡

△糸の井 一説、朝日山顕実上人硯水と云伝。考に石見荘糸井村にや。
 歌垣              顕実上人
  いろくの木葉流るゝ糸の井ハ ゆきゝの人のしるしとそ聞


△桜井清水  黒岡ノ西ノ方、今少し残る
                    赤松広秀
  黒岡に往来の人も心あらハ 薬ともなれさくら井の水

 

『播磨鑑』 附録(龍野文庫本による)

  播磨十水  赤松義村ノ定置れし所也

一小野江清水 姫路ぎふ町(侍町)郭内也、ほそく流る水の由 

一岡田苔清水 飾東郡星田庄、山崎村ノ内 小名清水と云

一篠井清水  揖西郡、黒崎村 

一花垣清水  揖東郡佐野村、古二條家の御領地

一小柳清水  揖西郡平野村

一御所清水  飾西郡田寺村、辺梅がたハ

一野中清水  明石郡印南野ノ中

一井ノ口清水 印南郡幣いノ村

一落葉清水  赤穂郡舟曳ノ庄ノ内に有之

一桜井清水  揖東郡西ノ方今少し

 是置塩城主赤松総州則房雑談聞書ニ有之所也

 赤松義村作書の秘事枕ニ予見立し播磨十水

一花垣の水 

一井ノ口清水

一御所清水

一篠井清水

一苔清水  飾西郡西脇村善導寺谷

一大木清水  飾西郡英賀村

一柳清水  揖西郡清水村

 是義村の作書に出れハ根本の十水是か、然なから七ヶ所有て三ヶ所見へず、

 書写する人の麁相か、則房の聞書と齟齬する処有、後、則房の改られしか

 英賀の妾あけぼの作書目覚し草ニ赤松屋形殿播磨十水

一御所ノ清水

一苔清水

一鷺清水   今姫路御城内清水門の内に有

一篠井清水

一柳ノ清水

一花垣清水

一小野江清水

一井ノ口清水

一糸の井

一なから井

 異所あるか、是は慥ならざるか

一当国十水の事は名水にたへたる事に候へば其村長心を付、みたりに汲とらせ

 ましき事也、水守に日毎に壱ますの扶助し給米等年毎に十俵を取せ三人宛可

 申付所也
               志水甲斐守 判
   文応三年二月
          十水所構主中

     ※文応は13世紀中頃の年号(文応元年は1260)、しかし、2年4月まで

      しかない。これは、どう考える?